鎖のまち姫路

姫路の鎖の歴史は約400年前までさかのぼる。姫路城築城に際し、和釘(松原釘と呼ばれる)を火造りしたのが起源とされております。明治に入って船釘の製造を行い、大正5年、大阪から鍛造による鎖の製法が伝えられ、その後、この鍛造の伝統を基盤に、ニ度に渡る世界大戦での需要増大で鎖産業は波に乗り、昭和15年頃、アブセットバット溶接法。昭和32年、フラッシュバット溶接法の機械製法の導入により、大型化、量産化、高品質化が可能になり、同時に地場産業としての基盤が確立されました。現在ではあらゆる鎖が生まれ育ち、その生産量は国内生産の約60%を誇っております。姫路市の南部工業地帯、白浜、阿成(あなせ)地区において地場産業を形成しており、その中心となる近畿製鎖協同組合には現在22社加盟しております。

白壁の美しいことから別名“白鷺城”と呼ばれる姫路城は、元弘3年(1333年)、播磨の守護職赤松則村がここに砦を築き、その子貞範が正平元年(1346年)城を構えたことが始まりです。その後小寺氏、黒田氏と移り、黒田如水(官兵衛孝高)のとき、彼の勧めで羽柴秀吉が天正8年(1580年)西国毛利攻略の本拠地として濠を巡らし、翌年3層の天守閣を完成させました。その後、羽柴秀長、木下家定と続き、関ヶ原合戦後、その戦功により、徳川家康の女婿、池田輝政が城主となり、慶長6年(1601年)から8年の歳月と述べ6千万人の人力を動員して城域を拡張し、5層7階の大天守を築きました。10年後本多忠政の長男忠刻、千姫(家康の孫で秀忠の長女)夫婦のために西の丸を整備して、元和4年(1618年)今日に見る名城としての偉容を完成させました。その後、松平氏、榊原氏、酒井氏を経て明治維新を迎えます。昭和に入り、それまで築城より300有余年、大きな修理を行っていなかった姫路城は昭和39年に14年の歳月をかけ「昭和の大修理」平成27年に5年の歳月をかけ「平成の大修理」を終え、現在に至っております。平成27年3月26日修理完成の記念式典が開かれ、大天守の上空で航空自衛隊のブルーインパルス6機が祝賀飛行を披露し、青空に桜を描いた。
このすばらしい景観は、国宝8棟、重要文化財74棟に指定されており、1992年ユネスコ世界遺産委員会で奈良法隆寺とともに日本で初めてのユネスコ世界文化遺産に指定され、まさに日本を代表する城郭建築であり、姫路市のシンボルとして市民に愛されております。またかつては城下町の中心だった城へと続く大手前通りはその美しい景観から日本の道百選に指定されております。